西武池袋線保谷駅北口を降りて、歩くこと数分。「おかしらのうち」と地元の人が呼ぶ下保谷4丁目特別緑地保全地区に到着します。
なぜ、ここに、名古屋市の市章がついた具足があるのか?
ここは、3年前に亡くなった故高橋敬一さんが住んでいた家です。今は西東京市が買い取り、特別緑地保全地区になっています。
この高橋敬一家に伝わって来たのが、お貸し具足。尾張徳川家から「貸していただいた」ものです。
長年高橋敬一家の蔵の中に眠っていましたが、最近になって発見され、天神社に奉納されました。
薄く伸ばした鉄板でできています。尾張徳川家の足軽が使った具足だとか。胸にある赤丸に八の印は、尾張徳川家が使っていた合印(味方を敵と区別するためにつけるしるし)で、今の名古屋市の市章になっています。
ここから、今日、私が下保谷4丁目特別緑地保全地区に出かけた目的について、ご紹介します。
西東京市は、尾張藩の御鷹場だった
西東京市を含む、かつての北多摩地域は、江戸時代には尾張徳川家の御鷹場でした。そのため、尾張藩は、足軽具足を高橋敬一家の先祖に貸し出し、御鷹場に関わる御用を務めさせたのでした。
でも、そもそも鷹狩りって、何?というところから知らない私たちのために、お鷹狩りについて学ぶミニ講演会が、今日開催されました。
西東京市富士町高塚交差点が、将軍家御鷹場との境界?
古文書なども読みながら、具体的にお鷹狩りについて、学びました。
講演会とその後にスタッフに聞いた話を総合しますと、どうやら西東京市富士町にある高塚という交差点から西は、かつては尾張藩の御鷹場の区域内だったようです。
では高塚から東、都内方面はどうだったかというと、将軍家の御鷹場だったようです。なので、境界には土盛を作り、「鷹場杭」と呼ばれる目印を立ててあったようです。
お殿様は手ぶらでお出かけ?
さて、鷹狩りは鷹を使って小動物を捕まえる狩のことですが、肝心の鷹は普段はどこで飼われてたかというと、江戸の藩邸ではなく、鷹場で飼育していたようです。
こういった鷹の飼育や餌の確保、鷹場となる場所にある道路や橋の管理、さらに鷹狩りの前後の殿様と随行のお食事や、夜の宿泊場所も、すべて鷹場内の村々が分担して準備していました。
つまり、江戸の藩邸を、お殿様は手ぶら(と言っても、それなりにお支度はあったでしょう)で出発し、鷹狩りを楽しんで、帰宅していました。お世話は、基本的に行く先任せでした。
今だったら考えられませんが、当時はそれが当たり前でした。
殿様の御用を務めるのを名誉と感じるか、負担と感じるかは、それを専門に研究されている方がいらっしゃるので、ここでは言及しませんが、たいへんだったことは間違いありません。
保谷のアイ
藍染体験もあり、たくさんの親子連れのみなさんが楽しんでいました。
昨年のNHK大河ドラマ「青天を衝け」に藍染農家が登場しました。まさに「保谷のアイ」にも、規模の差こそあれ、同じような営みがありました。ちなみに、「保谷のアイ」があれば、「田無のアイ」もありました。どう違うのか、交流があったのかなど、わかったら楽しそうですが、残念ながら、史料は断片的にしか残っていません。
さて、ミニ講演会の写真に登場した、高橋孝さんですが、高橋孝さん宅では、「花結び展」が行われていました。